ちら裏・厨二病シリーズ第二弾。
思ったことをただ綴るだけの内容ですので、お暇な方はぜひお付き合いください^^
でも、最初に謝ります。
まとまりがありません。ごめんなさい!!
いいたいこと
いつも、時間ってなんだろうって考えている。
時空って、重力ってなんだろう、って。
建物や様々な物体の曲率とか考えていても、「美しい」という感性を刺激されるのはやっぱり、3次元なんだよな、と。
二次元だと、個人的に「ものたりない」と感じる。
でも、これは自分自身に課している勝手な制約なのかもしれない。
時間を尺とするものに、価値を見出している。当たり前なことなんだけど、それは根拠を考えると実はものすごく壮大な流れでいうと、自然の摂理なんだろうな、と。
先を予測するなら、すごーくおおきな視野を持つと、もしかするとブレークスルーになるのかもと思う。
じゃぁ、制約の呪縛から出るにはどうしたらいいのかな・・・
と考えたときの思考の流れをブログにしてみた。
自由と制約
わたしたちの生きている世界
当然、地球です。
惑星のなかという限られた「空間」。
これは、もう3次元を超えることができません。
この中で、我々はもがき、よくありたいと願い、行動しています。
よって、行動の基本は空間にあり、制限を設けているし、制約があると思っている。
平等なのは時間
物理の時間に習った、3次元の次の軸は「時間」。
3次元で生きている以上、次の軸には行き来ができない。
よって、生きる上での制約でもあるけれども、過ごす長さは平等。
なので、なにか良い方向へ行くよう、試みを行うとすると、共通の尺は時間になる。
みんなで向かう先、それは「未来」「将来」。
現在のスナップショットではない。
次元のマジック
二次元と三次元
映画「ゼログラビティ」でも言及されていたけど、ワームホールの原理はすごく簡単。
二次元(紙)に線を描く。線の先端同志をくっつける(紙をおりたたみ、重ね合わせる)と、ワームホールの出口と入り口が一つになる。
これが、2⇒3のイメージ。
3⇒4のイメージも付くのかもしれない。
ときの旅人や、転校生なんかは、4次元世界からの旅人なのかもしれない。
体験するもの
空間になにかの建造物なり、五感を刺激するもので我々は刺激される。
目に見える範囲のものを感じ取る。
当たり前ですね。
自分のいる次元より微分された面・線での表現に反応する。
美しいと感じるのは、こういう表現のものが対象になる。
望むもの
自分の存在するスナップショットから積分されたところを表現されたものに反応することはあるのだろうか?
そこを見たい。感じたい。
まとめ
制約を超えて
時間を尺とするものに、価値を見出す流れになっている。
時間は平等だから、その平等なものに役割を設け、価値をつける。
時間より大きい次元は見えないけど、すごく簡単なところ・・身近なところに存在しているはず。すぐ隣に。
早く気が付きたいな、気が付かない大きな存在だけど、身近な隣人。
小並感満載なこんなエントリを読んでくださった方、ありがとうございます。