映画「光の雨」 ~社会主義の破たんの姿から~

しくじり先生の、マルクス主義講義を見て、また書きたくなってしまったので、記しておきます。

お目汚し、失礼します。


2002年公開作品。
出演:萩原聖人/裕木奈江/山本太郎/池内万作/鳥羽潤
/小嶺麗奈/川越美和/金山一彦/塩見三省/大杉漣

裕木奈江山本太郎がすごくうまかった。2時間10分という時間は長く感じませんでした。いまや、あんな議員になってしまったのですが・・・。

人間の思想には、「限界」というものが大きく作用して、理想も追求できなくなってしまう事があります。その大きな例です、この映画。
平等な共産主義を目指すが、平等になると、何もかもがまったいらな関係になる。 みんなの思想が正しくて、それを批判し、排除する事は主義に見合わない。
なのに、指示し、総括という名の元に自分の動きやすい環境を作っていき、 終いには自分までもが自分の作り出した理想境に屈する事になる。
矛盾も矛盾、大きな間違いに気が付いていながら、その方向修正を行う勇気すらなく、流れに身を任せてしまう。

思想とはなにか?
正しいと判断するのはなにか?理想境とは誰が定義するのか?
理想を追い求めるがゆえに導く自分に対しての壁、ヒビ、挫折。
自己批判とは、その壁を乗り越えるための一つの手段であり、排除するための手段ではない。
乗り越える=成長、であって、「存在の死」ではない。
これに疑問を抱かせない世界を自ら作り上げた事こそが、このパルチザンの大きな問題なんでしょうね。

今の世で、テロは起こるが、日本においての革命は起きない。
現状に甘んじているのではなく、現実が、情勢は悪くなっているにしても、 自由な発想をもち、それを披露していても、人道から外れていない行為ならば、批判はされない。

映画の中のセリフにもあった大きな印象を与えられたものがあります。
テロリズムは、瞬間の変遷のきっかけを与えるものだ」
本当にそうかもしれない。
考えるきっかけを与え、その結果がよかろうが悪かろうが、「なぜ?」 という事を考える事を余儀なくされる。
起こらない限り、考える事もない、日常からは想像を超える思想。

こういう疑問を感じつつも、なにもする事ができない自分を嘆くべきか?
いや、そうではなく、そういう事に対しての認識を深めるべきだという示唆が、この映画の中には見られました。
歴史において、その瞬間を過ごし、経てきた人もいる。
そういう人の存在を、意味を考え直していかなければいけない、という示唆が、あります。

「きっかけ」。
これが大きなこの映画のテーマだったのではないでしょうか?
無意味な時を過ごすのではなく、意味のある深い自己を築いていく事こそが必要なのだ、と改めて感じました。

 

18歳選挙権。1960年代には、選挙権もなく、学生運動という形で訴えていたこともあった。こんな今だからこそ、また、浅間山荘事件、赤軍、どうしてそういう思想に至ったのか?というプロセスをじっくり学んでいってほしい。もっと世の中の動きに興味を持ってほしい。

切にそう願います。