映画『リリイ・シュシュのすべて』 2001年公開

リリイ・シュシュのすべて

 

 

15年前の映画ですが、邦画の中ではトップ5に入る好きな作品。

感想も15年前のものですが、おそらく今書いても同じになるだろうなぁ。

20代の未熟者が書いたもの+αですが、ご容赦ください。

 

出演:市原隼人/忍成修吾/伊藤歩/蒼井優/大沢たかお
        /稲森いずみ/市川実和子


◆ストーリー



田園が美しいとある地方都市。中学二年の蓮見雄一の一家は、実の
母と新しい父親とその連れ子の弟との4人家族。

学校ではいじめを受け、窒息しそうな毎日。そんな雄一にとって、リリイ・
シュシュだけが「リアル」。
自分の部屋に閉じこもり、自ら主宰するリリイ・シュシュのファンサイト
「リリフィリア」の中だけが、本当の居場所。

 

◆感想


哲学的な要素が詰まっている作品は大好きなので、必然的に、この作品の冒頭からの文字の運びに引き付けられた。
エーテル」「自我」「開放」などなど・・・

つらい映画ですが、岩井監督の言いたい事がいっぱい詰まっているような感じがした。
形としては捉えられないけれど、なにか、流体的な要素で構成されている、不変な思想。
これが、形ではなく、身体のどこかにに刺さってくるので、「痛い映画」となる。刺さる位置は・・・「魂」。

やっぱり、リーダーがいて、そこを中心に世界が回る。
狭い「団体」という名の世界。ここからはみ出るものは、規律を守らないものと称し、「いじめ」を行う。悲惨なすさんだ心がおこす歪んだ現象。
その「罰」は、その対象人間にこたえるものであれば、程度は何でもかまわない。
ここが、中学生という、まだ、判断基準が未熟な人間の犯す怖い領域。

エーテル」の開放。自己の魂の浄化。これを求めて、リリィ・シュシュの信者は、曲を聞く。
本当に、それを感じているのかどうかは分からないけれど、脳にインプットされた危険信号が、「何か」を求め、それが、賛同者が多ければ、それに準じてみる。

そして、自分も何かを感じたと認識したとき、その瞬間に、彼らは自分を昇華する事ができる。映画の中にも登場した台詞ですが、一種の新興宗教的な波紋です。

自分を持っている、本当の自分を偽らない、怖がらない(!)人間こそが、魂を開放させる事ができるし、エーテルが限りなく透明に近い青を持っているのだ、と、この映画の中では訴えかけられていたような気がする。
強い少女に惚れた主人公。

それは、その強さをどこかで関知して、その部分を吸収したいという欲求が、その恋愛感情というものに変化したものなのかもしれない。

何も言わずに、自分を開放する事はできない。
きっかけが、必要。人によって違う、その「きっかけ」を、中学生の恐ろしい側面を利用し描いていった、この『リリィ・シュシュのすべて』。。。
なんとも、、、この世界、どっぷり漬かると、怖い気がした。

いじめ・・・人間としての存在を否定される事が、一番つらい事。
レイプや、かつ上げ、そんな生易しいものではない。
そこから這い出るには、自分を認めるしかない。
誰かに支えられれば、克服できるものではない。
最終的には、自分。否定される自分がいても、それが自分なんだ、こういう欠点を持っているが、そこを認め、向上心を持ち、進化していく事こそが克服する「唯一の」方法。

人間関係を築いて行くのは生半可なものではない。

とはいうものの、本質は結局ひとつなんじゃないかと思っている。

 

 その人を好きになろうとしているかどうか。

 

好きになりたいと思えれば、歩み寄りたいと思うし、理解したいと思う。

大好きなのでその方々を理解したいとまず思う。

そうすると、苦手だと少し感じても、その感覚がなくなる。

嫌いな 人なんていなくなる。

全てをひっくるめて、その人なんだ、と理解できるから。自分と違うとかは関係ない。理解しているかどうか、が肝要。

理解していくからこそ、尊敬できるし、尊重できる。

その人の前で素直になれる。

人付き合いに悩む前に、自分でその人を受け入れる体制ができていますか?

排除は簡単。 素直に受け入れることができると言うのは最強。

純粋でありたいと切に願う。