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映画「GO」 2001年公開作品。窪塚洋介、柴崎コウ主演

はじめに


これを当時見たときは,とてつもない衝撃をうけました。

その時に書いた文章そのものを載せておきます。

稚拙な表現がおおく、まだ20代の半ごろ・・・。

それでも、そういう時期にこういう作品に出会えたことに感謝です。

今の自分の価値観形成に大きく影響した作品。

 

映画や本との出会いは、大きく人を変える力を持っています。

 

GO



この作品の奥に秘めるものは、幅広く、そして、つかみ所の無い、大きな世界を包含するところまで発展しそうな勢い。
人間のルーツをたどる台詞も入っていて。。。
「杉原の恋愛の物語」と、映画の中では繰り返しいわれていますが、見終わったら、それだけではすまないような気持ちが、心を占めてくれます。
本当に、いろんな意味でタイムリーな映画でした。

非常に、私には忘れられない作品になりました。
日ごろから、仕事上考えていること、自分の奥底に眠っていたもやもやとした感情を起こしてくれた作品でした。

この映画の中で、父親が、韓国籍を取るとき、
「何人にでもなれるんだ。金さえあれば・・・」という台詞を言った理由。
そして、ジョンイルが「僕らは国なんて持ったことありません。」といった理由。
なんとなくはわかっていても、それがどのような背景でいわれているかを明確に把握できたことで、より、この作品の意味が深い物であることを感じました。


世界の全ての思想は、どこから生じて、ここまで発展していったんでしょうか?


国境、人種、思想・・・
世代を超えて受け継がれ、ずっと昔からあり続けるもの。
世界中でもありますが、日本国内でも、そういう問題が解消されていない狭い思想を持った人々がいます。
江戸時代の「えた、非人」という階級。その言葉にあるように、人間にあらず、とされた階級です。
今は、戦争になりそうで、そちらのほうばかりに視点が行き、足元までは及んでいません。子供同士のいじめ、など・・・。

なぜ、「違い」を見出すのか。
このGOのなかでも、杉原が、焼き肉やのおばちゃんとジョンイルに、説明する
シーンがあります。「ひ・ひ・ひ・ひ・・・ばーちゃんは、アフリカ人になるんだぜ」
と熱く語る杉原。これは、彼の、映画の中で言いたかったことすべての大元に
なる言葉ですね。
先祖がアフリカ人。人類は、元は同じなんだ。
言葉にすると、とってもありふれた言い方になるので、嫌です。

同じだけれど、なぜ、心が一つにならないんだろう?
どうして、戦争が起こるのか?どうして、「違うもの」になるんだ?
同じ人間なのに。なんで、区別されるの?

結局は、集団の思想からはみ出るものは排除する、という根本があるわけです。
誰かから物を習い、それが正しいとされている社会の中で育ち、価値観を形成
されるわけですから、いまから差別をなくせ、というのは、価値観をなくせ、と
いっているようなものになってしまうのです。

価値観はそれぞれ、違うもの。思想というのも、その人物像を形成する大きな
要因を担っています。
そこで、この杉原の父親の言っていた言葉、大きな視野をもて、という意味のもの。
この作品の中では、本当に大きな、大きな意味を持つ言葉です。
多くの価値観に触れて、一番自分に合った価値観、自分で最良と思える価値観を
見出す。言葉にすると、簡単ですが、これができる人って、なかなか、いません。
だからこそ、祖国にしがみつき、離れられない。
自分が属している思想の範疇から出ることができない。
(ここに、桜井(柴崎コウ)が、父親から教わった言葉のルーツがあるのでしょう。
「中国、韓国の人間の血は汚い」という・・・)

「こうするべきだ」という考えは、理想論であって、実行に移そうとしても、
それに従える人がどれだけいるか。
批判し、願い、実行できるのは、誰なのか。
その、実行に移すには、勇気、自分への自信、変えたいと思う強い願い、
希望、応援する確固たる存在、そういった物がすべて存在しなければ、
できない。だからこそ、その転機となるものが必要なんですよね。

映画「ハリケーン」や、その他、人種差別をなくそう、という意味をもった
映画が公開され、その当時は、問題が持ち上がり、行動が起きる。
しかし、いつの日か、忘れ去られ、過去の遺物と化してしまう。
当事者でなければ、念頭に置き、変えていこう、という意思を持ちつづけることは
できないのだろうか。。。

こういった、今までの諸々の問題を踏まえ、現在の状況において、できる最善の
ことはなんなのか。テロ事件があったからって、そんなにすぐには変えることが
できないことは、だれでもわかっている周知の事実。
それぞれが、自分の足元にある問題から解決していかなければ、大きな
世界的視野を持って実行しても、所詮は、大元を断つだけで、周りの原子は
残っている。
なかなか、難しい問題なのです・・・。

過去の歴史は変えられません。
韓国を併合し、中国の南京で大虐殺がおき、資本と共産というおおきな思想
の違いが残っている理由。それを踏まえて、お互い歩み寄るには、どうしたら
いいのか。一つしか方法はないんですよね。
人間を人間と認め、同じ物だと認識する強さ。
見た目ではなく、中身だと。いろんな価値観、思想があることを認識し、その
違いを活用できる大きな包容力をもった世界を築くこと。
秩序を保つため、誰かがそれを率先して行わなければいけない。
平等であれ、といってはいても、やはり、その概念を掲げ、全てを統括すべき
大きな存在、カリスマ性を持った人間が必要なのです。
それが、ソ連が崩壊した今、アメリカが担っているのですよね。
自分の中に、まだまだ根ついている大きな問題(人種問題とか)をかかえつつ、
実行できるのは、大きな勢力をもったものでなければ、できない状況にもって
行ってしまったのは、他でもない自分達人間なんですよね。

 


歴史を、多くの異なる思想作ったのは、自分達人間。責任を持ってそれを認めながら行動しなければいけない。

 


軍事を持って制するのではなく、概念をもって制せよ・・・
理想はどこまで通じるのか。
大きな局面に面しているんですよね、今。
そんな時に、その根本になる、基本的考えをここで示してくれた、忘れては
いけない作品が、このGOだと、私は思ってしまいます。

それぞれの考えや生活を脅かすようなことではなく、もっと、基本的理念から
見詰め直さねば、なにごとも終わらないのでしょう・・・
訴えているだけではいけないって事ですね。身近なところから、実行に
移していかねばいけない時期にきているのでしょう。
この映画を見て、どう思うか・・・思うだけではなく、どう消化できるか。。。
本当に、本当に大切にしたい作品です。

ストーリー***********************

杉原は高校3年生。あだ名は“クルパー”。普段はまったく意識しな
いが韓国の国籍を持ついわゆる「在日」。未だに将来の夢も進路も決
まらず、バスケ部を辞めて以来、喧嘩しかすることがない。中学まで
民族学校に通っていたが、広い世界を見たくなり、意を決して日本
普通高校へ入学した。

 3年前、杉原の父・秀吉は、ハワイ旅行をきっかけに国籍を“朝鮮”
から“韓国”に変えた。秀吉は元ボクサー、幼い頃からボクシングを叩
き込まれた杉原も、喧嘩では現在24連勝中。記念すべき初勝利の
相手は、今やすっかり仲良くなったヤクザの息子の同級生・加藤で、
杉原がへし折った鼻を整形したら女にモテはじめたというハッピーな
男。杉原のまわりには他にも、線路に飛び込んで電車と競争する命
がけの肝試し「スーパー・グレート・チキン・レース」で杉原以外の唯一
の生存者タワケ先輩や、杉原とともに民族学校で教師たちから目の
敵にされ続けた元秀(ウォンス)などクセ者がたくさんいた。彼らとつるむ
のも悪くなかったが、杉原が親友と呼べるのは民族学校開校以来の
秀才・正一(ジョンイル)だけだった。音楽、映画、小説…何だって詳しい
正一とくだらない冗談を交えながら喋るのは本当に楽しい時間だっ
た。

 ある日杉原は、加藤のバースディパーティーで声をかけてきた少女・
桜井と突然の恋に落ちる。人生に女の子という文字など無いと思って
いた杉原でも、ぎこちないデートを重ね、2人で同じ場所を歩き、同じも
のを観て、同じものを聴くたびに互いの気持ちが近づいてゆくのがわ
かった。桜井の家に招待されて両親に会い、噛み合わない会話を交
わした後、部屋で2人はキスをする。・・・いつかは告白しなきゃならな
い。自分が「在日」であることを・・・そのことが時々杉原の頭をよぎる
けれど、それで全てを失うはずはないと思っていた。怖いくらい何もか
もがうまく回り始める日々に、杉原は有頂天になっていく。

 悲劇は突然起こった。親友・正一が駅で少年に刺され、命を落とし
てしまう。誤解がもとで起こった事故だった。「話したい事があるんだ。
すげえ事なんだ。オマエならわかってくれると思うんだ」直前まで正一
と電話で話していた杉原の耳には、正一の最後の言葉がいつまでも
残って離れなかった・・・

***************************

リーダブルコード読書感想文 (小並感版)#1


買ってから、かなり時間が経ってしまった。

私はというと、今現在はコードとの関わりはほとんどない。
コードを書いているわけでもなく、テストコードをたまーーーに、趣味で書く程度。
携わっているのは、開発のモデルとかそんな部分の改善.

そんな、非エンジニア的なおばさん属性を持つ人が読むとこんな感想になるよ!
と言うのを書いてみた。

世間では、読書感想文は、こういう風に書くといいよ!的な記事でにぎわっていましたね。 そこを無視して、あえてオレオレな観点、内容で構成してみました!

________でも、もしかすると。

面白いって思えて、「リーダブルコード」読んでもらえたら嬉しいです。

 

【全体構成】


章の順番が非常にいい。
本なのだから、当たり前なんだけど。
最初の方では、何回も コードがリーダブルコードであることの目的、理想像 が出てくる。

で。後半はコードから少しずつ視点を引いていって、俯瞰的に見る流れになる。

(と、私は感じた(^_^;))

そうすると…
なんということでしょう!あっという間に、

リーダブルコードであること -- リーダブルである姿を意識する開発、テストがどういうものであるか -- 開発手法

という流れになるではありませんか!

こういう流れで考えていくと開発もテストも楽しくなるよ!と洗脳されるかもしれませんね。
この章立てこそが、この本の肝。かもしれません。



【文体】

いやー、読みやすいですね。

あ、英語の方じゃないですよ。日本語訳の方ね。
訳者の角さんの使う日本語運びが絶妙…。

色々所に、くすくすモジュールを散らばめておいて、ところどころでAPI的に使って笑いを誘う。

さすが、リーダブルコード!
いや、リーダブルドキュメント!^^;

 

 

【内容】

序 「リーダブル」とは何か?


読みやすさを備えており、誤解されず、一貫性を持った美しさを持ったもの。

 

日本語にはあいまい性があるので、それを少し排除するために、本書の言葉を借りる。

 

「読みやすさ」=「他人が最短時間で理解できる」ことであり、「リーダブルコード」とはその定義を実装したコードである。
「誤解されない」=「書いた人の意図を間違えずに読み取る(理解する)ことが出来る」
「一貫性を持った美しさ」=「一つ一つの関数が美しく全体も美しさの判断基準が統一されている」

 

こんなコード、かけていますか?


「リーダブルコード」を実装する技術を身につけることはすぐに出来ることではない。

それならば。

一人で学ぶよりもグループで、といった策をとったり、他の人のコードをレビューするときに意識してみていくということをしていけば、効果的に学んでいこう。盗んでいこう。

 

「意識すること」が大事で、レビューする観点のひとつに入れてしまったり、コーディング規約にうまく入れ込んでいけるといいなぁという小並感。

 

 

おまけ

ちょっとだけ、”コメント”について。

本書では、
「コメントの目的は、書き手の意図を読み手に知らせること」と述べている。

コードを書いているときに持っている大切な考えを明記すればよいとしている。
Twitterなどでも、有識者たちがコメントについていろいろ議論しているのを読んだことがある。
そこでも議論されていた内容だが、この本を読んだ内容と照合すると結局は、
・コードを読んで分かることは記載不要
・どういう意図でこういう振る舞いにしたかということを明記
・振る舞いを選択するときに検討した内容で重要なことを記述
という方針でかかれるべきであり、コードレビューなどの設計の意図を把握するための補助記録として使うべきツールとしても用いられ、一貫して「理解しやすさ」を補助するためのツールなのだ、と理解しました。

で、コメントを書くときには「一貫性」をもたせて、「誤解されない日本語」であることも、もちろん重要であります。リーダブルの定義ですね。

コードのコメントにはちょっと痛い思い出があるので、まとめを残しておきたくなりました。

 

 

「破」「急」はまた後日に!

映画『リリイ・シュシュのすべて』 2001年公開

リリイ・シュシュのすべて

 

 

15年前の映画ですが、邦画の中ではトップ5に入る好きな作品。

感想も15年前のものですが、おそらく今書いても同じになるだろうなぁ。

20代の未熟者が書いたもの+αですが、ご容赦ください。

 

出演:市原隼人/忍成修吾/伊藤歩/蒼井優/大沢たかお
        /稲森いずみ/市川実和子


◆ストーリー



田園が美しいとある地方都市。中学二年の蓮見雄一の一家は、実の
母と新しい父親とその連れ子の弟との4人家族。

学校ではいじめを受け、窒息しそうな毎日。そんな雄一にとって、リリイ・
シュシュだけが「リアル」。
自分の部屋に閉じこもり、自ら主宰するリリイ・シュシュのファンサイト
「リリフィリア」の中だけが、本当の居場所。

 

◆感想


哲学的な要素が詰まっている作品は大好きなので、必然的に、この作品の冒頭からの文字の運びに引き付けられた。
エーテル」「自我」「開放」などなど・・・

つらい映画ですが、岩井監督の言いたい事がいっぱい詰まっているような感じがした。
形としては捉えられないけれど、なにか、流体的な要素で構成されている、不変な思想。
これが、形ではなく、身体のどこかにに刺さってくるので、「痛い映画」となる。刺さる位置は・・・「魂」。

やっぱり、リーダーがいて、そこを中心に世界が回る。
狭い「団体」という名の世界。ここからはみ出るものは、規律を守らないものと称し、「いじめ」を行う。悲惨なすさんだ心がおこす歪んだ現象。
その「罰」は、その対象人間にこたえるものであれば、程度は何でもかまわない。
ここが、中学生という、まだ、判断基準が未熟な人間の犯す怖い領域。

エーテル」の開放。自己の魂の浄化。これを求めて、リリィ・シュシュの信者は、曲を聞く。
本当に、それを感じているのかどうかは分からないけれど、脳にインプットされた危険信号が、「何か」を求め、それが、賛同者が多ければ、それに準じてみる。

そして、自分も何かを感じたと認識したとき、その瞬間に、彼らは自分を昇華する事ができる。映画の中にも登場した台詞ですが、一種の新興宗教的な波紋です。

自分を持っている、本当の自分を偽らない、怖がらない(!)人間こそが、魂を開放させる事ができるし、エーテルが限りなく透明に近い青を持っているのだ、と、この映画の中では訴えかけられていたような気がする。
強い少女に惚れた主人公。

それは、その強さをどこかで関知して、その部分を吸収したいという欲求が、その恋愛感情というものに変化したものなのかもしれない。

何も言わずに、自分を開放する事はできない。
きっかけが、必要。人によって違う、その「きっかけ」を、中学生の恐ろしい側面を利用し描いていった、この『リリィ・シュシュのすべて』。。。
なんとも、、、この世界、どっぷり漬かると、怖い気がした。

いじめ・・・人間としての存在を否定される事が、一番つらい事。
レイプや、かつ上げ、そんな生易しいものではない。
そこから這い出るには、自分を認めるしかない。
誰かに支えられれば、克服できるものではない。
最終的には、自分。否定される自分がいても、それが自分なんだ、こういう欠点を持っているが、そこを認め、向上心を持ち、進化していく事こそが克服する「唯一の」方法。

人間関係を築いて行くのは生半可なものではない。

とはいうものの、本質は結局ひとつなんじゃないかと思っている。

 

 その人を好きになろうとしているかどうか。

 

好きになりたいと思えれば、歩み寄りたいと思うし、理解したいと思う。

大好きなのでその方々を理解したいとまず思う。

そうすると、苦手だと少し感じても、その感覚がなくなる。

嫌いな 人なんていなくなる。

全てをひっくるめて、その人なんだ、と理解できるから。自分と違うとかは関係ない。理解しているかどうか、が肝要。

理解していくからこそ、尊敬できるし、尊重できる。

その人の前で素直になれる。

人付き合いに悩む前に、自分でその人を受け入れる体制ができていますか?

排除は簡単。 素直に受け入れることができると言うのは最強。

純粋でありたいと切に願う。

 

 

プロとアマ ~第三者検証と鏡~

◆はじめに


なぜこの記事を書いたか。
もちろん、このお話に深く同意する部分があったということもありますが、今後の意識の持ちようを再確認しなさいという自分への戒めの意味が一番です。


◆序


ピアノを習いはじめました。まだ、継続1年半ほど。
両手でやっと弾けるようになりました、程度のひよっこ。
先生は、音大も出て、20年以上生徒を教え続けており、自分でも演奏会を開いたり、サークルを作っての活動もされているすごい方。
まだまだ、自分は修行中。
そんなレッスンのなか、練習方法の話になり、花が咲く。
先生「練習、どうやってされていますか?」
自分「先生にアドバイスいただいたことをひとつずつ確認しながら、ひとつクリアしたら次へ・・というやり方です。」
先生「なるほど。私のコメント、アドバイスを取り入れてくださっているので、上達が早いのですね。では、プロとアマの違い、分かりますか?」
自分「突然ですね(笑)。」
先生「突然ではないのですよ。練習方法と意識の向け方はつながっているんです。」
自分「プロはお金をもらう、アマは自己満足・・?」
先生「それが全部ではないですが、そんなイメージですね。大きく違うのは、『第三者からの目を意識しているかどうか』にあります。」
自分「なるほど・・・」


◆破


『第三者の目』というのは、どういう意味で使われているのでしょうか。
簡単に言うと、「鏡」です。
自分を照らし合わせ、客観的に見ているかどうか、です。
客観的というのは、主観がはいってはいけません。絶対に。

「鏡」でありつづけるのです。

1)簡単な例

朝起きて、髪の毛がおったっていたとします。
鏡をみないと、「どの程度」「見たときにどう感じるか」等の観点を増やすことが出来ません。
鏡を見ずに外出すると・・髪型も服装のバランスも確認できません。
自分で持っているイメージだけで”想像”したものが成果物になっています。
鏡をみれば、「どこを直せばいいか」「どうであれば良いか」「自分の持っているイメージと同じかどうか」などのチェックを行うことが出来ます。

2)ピアノの事例

ちょっと極端なイメージで書くので、その辺はご容赦ください。
アマ:他者に「自分のイケてる演奏を聴かせる」
プロ:他者に「自分が生業とする技術を聞いていただく」「反応を見て改善をする(お金をいただいているという意味でも)」
上記のような、各自の持つ『意識の違い』が大きな差分となっています。

3)実際

IT業界で働いており、プロセス改善など、所属する組織の底上げ・意識向上を行う部署にいるということもあり、上記の意識は常に持ち続けなければいけません。
コミュニケーションにおいても、すべてにおいて共通する事項となります。
「自分を客観的に見れていますか?」
「他者を意識せず、改善(成長)を怠っていませんか?」
自分を成長させたいならば、第三者の目線が必須なのだと改めて実感しました。
発展途上にあり続ける人間。
成熟という言葉は、ある特定の、本当に小さな領域でなら達成しえるかもしれない。けれども、部分最適のままでいてはもったいない。
その「部分」を広げていくためには、「成長」という言葉が表面に出てくるのです。


◆急


ソフトウエア開発現場において、QAはなぜ必要なのか。
第三者検証がなぜ必要なのか。
また、そのあるべき姿はどういうものなのか。
鏡は自分自身を率直に映し出してくれます。

これは、
客観的に見てくれる他者と「あるべき姿」の『合意』が取れていることを意味し、ステークホルダーとの合意が必須であることを示します。
前提を同じくし、あるべき姿に向かって「どこをなおせばよいか」「どうであればよいか」をひとつずつ確認するプロセスを踏みしめていく。
個人も、組織も粒度を変えてみてみれば必然と変わらない・・・。


reflection on you,yourself.
今日も鏡を見ていますか?

家族ニコニコ大作戦!

本日の目標:小言を言わない。穏やかに楽しく寝る時間を迎える

 

朝。子供たちは機嫌よく起きてきた。

「これはチャンスだ!」

 

毎日、起きない子供たちを起こす朝。

たまには、違う一日があってもいいよね!と思い立ち、目標を決めた。

そうとなれば、実施タスクを洗い出す。

 

計画を立てる

★この目標(冒頭に書いた目標)をステークホルダと共有し、合意を得る

 →子供たちに宣言する。このことにより、共通のゴールをもち運命共同体となる(w。宣言するタイミングは、早すぎても遅すぎても忘れてしまう。よって、家に帰る直前が好ましい。意識を向けやすくなる。なので、今回のケースの場合は、子供たちをお迎えに行った直後、ということで実施した。

 実際の会話。振り返ると、ちょっと強引な気もするが・・・(^^;

母「今日は、お母さん、細かいこと言わないで、にこにこして、寝る前のお話をたくさんしたいんだよね~。それって、どう思う?素敵じゃない?」

子供たち「お話しを長くしてくれるの?やった~!」

母「じゃ、がんばってみようか!がんばれそう?」

子供たち「うん!」

 

 

★ゴール達成のための手段を関係者とともに洗い出す

 →こどもたちと、ご飯を食べながらブレーンストーミング。ゴール(冒頭の目標)を達成するためには、どうしたらいいいかな?を相談。

 

 実際のここでの会話は、以下のようなものだった。

 母「お小言をいわないようにしようとおもうんだよね~」(ゴールの共有)

 娘「ふーん。」

 母「どうしたらいいかな?見ちゃうと、言葉にでちゃうんだよね~。」

 娘「見なきゃいいんじゃない?」

 母「見ないようにするにはどうしたらいいんだろう?例えば、今はご飯を食べているよね。いつもなら、どういうことでお小言を言っているかな?お母さん、忘れちゃった・・・教えてくれる?」

息子「左手を出しなさい!」

 娘「食べることに集中!」

息子「姿勢を正す!」

 娘「遊ばない!」

 母「・・・。かなりうるさいオバハンだね、それじゃ・・・><」

 娘「それは、私たちがやっているから・・・」

 母「そうか。なら、どうしたらいいんだろう?」

息子「ちゃんと食べる!」

 母「はい!そうですね!ご協力、よろしくお願いします!」

二人「はーい!」

 

アクション

・実際に実施する

 →一つ一つ確認しながら、大事に行動していく。ご飯を食べているときにも細かいところに目を向けない、にこにこする。そうすることにより、子供たちもなぜかいい子になってしまう。ブレストで会話した内容を、「どうしたらちゃんとしているとみるか」の状態を確認しながら行動をとる。

子供の場合は、気を抜くとすぐに楽な行動をとろうとするので、要注意(w

 

  

 

振り返り

・効果を測る(KPT)

 →寝る前に、どうだったか反省会。これも、一つ一つを振り返り、どこがだめだったかな?と、笑いながら指摘しあい、次回はどうしようか!と考える。

 

まとめ

こう考えると、何もかもがプロジェクトだし、うまく回すための試みはすべてにおいて適用できる。

まずは、母親としてうまく回したいというのが私個人の大きな目標。

それには、関係者の合意と協力なしにはうまく回らない。

周りのママ友と話をする中で共通と思う事項は、

「自分自身だけの振り返りでうまくいかないかな、ともがいている」

ということだった。

子供も巻き込んで、一つのプロジェクトゴールを達成すると考えれば、きっとこの目標もいろいろな場面で成功に導けるのでは、と感じた。

 

そのうち、「スキル」「定量的な測定」「改善をもっとうまくまわすには」という上位レベル(?)の試みも実施してみたいとおもった。

 

 

今回の大作戦の勝因

最初に宣言したこと!うまく誘導できたのだという実感がある。

プロジェクトを「うまく」回すには、細かいスキルが必要になってくるものだと思う。

ファシリテーション、コミュニケーションの活性化。

すこしずつ、子供とその辺を一緒に勉強していければ、と考えている。

 

次回はいつ実施しようかなぁ。。。

毎日は到底無理。両者ともに疲れてしまう^^;

まずは、スモールスタート。一週間に一度か・・・朝の様子をみて、実践を見ていこう。

 

 

映画「光の雨」 ~社会主義の破たんの姿から~

しくじり先生の、マルクス主義講義を見て、また書きたくなってしまったので、記しておきます。

お目汚し、失礼します。


2002年公開作品。
出演:萩原聖人/裕木奈江/山本太郎/池内万作/鳥羽潤
/小嶺麗奈/川越美和/金山一彦/塩見三省/大杉漣

裕木奈江山本太郎がすごくうまかった。2時間10分という時間は長く感じませんでした。いまや、あんな議員になってしまったのですが・・・。

人間の思想には、「限界」というものが大きく作用して、理想も追求できなくなってしまう事があります。その大きな例です、この映画。
平等な共産主義を目指すが、平等になると、何もかもがまったいらな関係になる。 みんなの思想が正しくて、それを批判し、排除する事は主義に見合わない。
なのに、指示し、総括という名の元に自分の動きやすい環境を作っていき、 終いには自分までもが自分の作り出した理想境に屈する事になる。
矛盾も矛盾、大きな間違いに気が付いていながら、その方向修正を行う勇気すらなく、流れに身を任せてしまう。

思想とはなにか?
正しいと判断するのはなにか?理想境とは誰が定義するのか?
理想を追い求めるがゆえに導く自分に対しての壁、ヒビ、挫折。
自己批判とは、その壁を乗り越えるための一つの手段であり、排除するための手段ではない。
乗り越える=成長、であって、「存在の死」ではない。
これに疑問を抱かせない世界を自ら作り上げた事こそが、このパルチザンの大きな問題なんでしょうね。

今の世で、テロは起こるが、日本においての革命は起きない。
現状に甘んじているのではなく、現実が、情勢は悪くなっているにしても、 自由な発想をもち、それを披露していても、人道から外れていない行為ならば、批判はされない。

映画の中のセリフにもあった大きな印象を与えられたものがあります。
テロリズムは、瞬間の変遷のきっかけを与えるものだ」
本当にそうかもしれない。
考えるきっかけを与え、その結果がよかろうが悪かろうが、「なぜ?」 という事を考える事を余儀なくされる。
起こらない限り、考える事もない、日常からは想像を超える思想。

こういう疑問を感じつつも、なにもする事ができない自分を嘆くべきか?
いや、そうではなく、そういう事に対しての認識を深めるべきだという示唆が、この映画の中には見られました。
歴史において、その瞬間を過ごし、経てきた人もいる。
そういう人の存在を、意味を考え直していかなければいけない、という示唆が、あります。

「きっかけ」。
これが大きなこの映画のテーマだったのではないでしょうか?
無意味な時を過ごすのではなく、意味のある深い自己を築いていく事こそが必要なのだ、と改めて感じました。

 

18歳選挙権。1960年代には、選挙権もなく、学生運動という形で訴えていたこともあった。こんな今だからこそ、また、浅間山荘事件、赤軍、どうしてそういう思想に至ったのか?というプロセスをじっくり学んでいってほしい。もっと世の中の動きに興味を持ってほしい。

切にそう願います。

 

ズートピアを見て考えたこと、「みんないっしょ」

ズートピア、子供たちと見ました。子供の目から見れば、純粋に動物たちの警官物語、友情と勧善懲悪ものだったのかもしれません。

しかし、随所に散らばるセリフの内容が、大人にはかなり訴えかけてくるものでした。

 

そのなかでも、心に残ったセリフは、次のものでした。

①「自分に自信がなかったから、虚勢をはっていたんだ」
②「なにものも、関係なく自由に過ごせる世界」
この二つからふと思い浮かんだのは、映画「ルワンダの涙」でした・・・。

 「ルワンダの涙」という映画。ルワンダの原住民部族同士の大虐殺を描いた映画でした。悲惨すぎる映像に吐き気をもよおしました。 同じ国の人間でありながら、民族がちがうというだけで、殺しあう。
その映画の中にあったセリフ。
アメリカのジャーナリストが、その殺戮現場にいて、映像をとり続ける。
しかし、そこで出たセリフが、以下のようなものでした。


「悲惨だとは思うけど、実感がない。それは、肌の色がちがうから、自分とは重ね合わせられない・・・」


これですよ、まだのこっているんですよ、こういう観念が。

「実感がない」


80万人以上の人が虐殺されたという数字上の事実だけが空を飛び、他国へ 伝えられているという現実。
人間といういきものは、美しいことをすることもあるけれど、極限まで悪に染まってしまうこともある。
この、集団ヒステリーというか、洗脳されたロボットのような行為。 ひたすら殴り殺す、ナタで殺す、血を流させる。これは、かなり極端な例ですが・・・。
しかし。生きるってなんなのか。自分と違うもの、怖いから排除するだけが道なのか。

 

実際にまだ随所で「排除」は起こり、当事者以外は「実感がない」・・。

 

「それでいいの?」ズートピアのセリフには、そんな思いも込められているように感じました。

 

ドラッグ問題への言及、戦争へのいら立ちを感じる場面もちらばめられていました。非常に内容の濃い映画でした。もう一度、見ます。しっかり考えながら。